樹海行路




心の陰りが、予期せず行動に表れてしまったようだ。気が付けば滅多に人も通らない荒れた森の道ならぬ道を、 まるでどこへも帰り着きたくないかのようにぼんやりと歩いていた。一刻も早く任を終えて妻の身を確かめたいと思うたびに、腕の痛みがことごとく水を差す。

鼓動と同じ律動で繰り返す鈍痛によって、利き腕を負傷したという事実が否応なく突きつけられる。武田の領地へ戻るだけのことが、これほど心を重くしたのは初めてだった。

玄次が里から武田に雇われるのは今年で3年目になる。幸い前年以前の働きが認められ、今年もほぼ戦の行われない冬を中心にして他国の情勢を探る役を任されていた。 だが、長らく停滞していた寒気もじきに去っていくだろう。そうなれば再び戦火が上がり、戦に使われない忍は里へ戻ることになる。 今年四十になる玄次は、忍としてはもう若くない。次が必ずあるとは限らない。

藪の中をわけ進みながら、時折肩や顔を照らす陽が早い春の気配を忍ばせていることに気が付いても、色づき始めた新芽のように素直に喜ぶことは出来なかった。

忸怩たる思いで歩んでいた玄次の目の前で唐突に藪が途切れ、視界が開ける。 赤土の目立つ地面の上に、苔に覆われた巨木が天を指している姿に出くわして思わず息をのんだ。 しめ縄の名残がうかがえる幹の影には、風が吹けば崩れ落ちそうな身の丈ほどの祠が、景色と同化しながら黙り込んでいる。 淋しげなその姿が、乱れていた玄次の心を幾分か静めた。

何が祀られているかも分からない祠の側へ寄り添うようにして腰を下ろすと、玄次は我慢してきた暗い息を吐き出した。

これは珍しい
祠が溜息をつくなんて聞いたことがない

獣と草木のざわめきだけで満たされていた森に、朗々と人の声が響く。
気配など全く感じられなかった。
とっさに立ち上がり、得物へ手をかける。すると先ほどよりも近い場所から含み笑う声が聞こえ、頭上の枝が静かにしなった。 反射的に動こうとする体を押さえ、聴覚だけで上方を探るが、声の主は容易に正体を掴ませない。 やがて作り声ではないらしい聞き覚えのある声が、玄次の真上から降ってきた。

「遁も使わずにこんなところで一休みとはねぇ。面の厚さはさすが年の功ってところか?杉谷の玄次さんよ」
「…猿飛か」

調子ばかり良いその声に、玄次は未だ緊張を保ったまま、しかし刀からは手を離す。
武田家臣の真田家に仕える声の主は、出自を玄次とほど近い甲賀の里に持っている。年若いながらも一隊の長を任されている彼の名は、 甲賀のみならず忍の者には広く知れ渡っていた。長い生業の中で玄次もまた幾度か顔を合わせたこともある。 だが同じ武田に仕えていても、役目も格も大きく違う彼の英姿を実際に目にしたことはない。

こちらへ姿は見せず頭上から木の背後へ、声はするすると移動していく。

「大将があんたを待ちわびてる。さっさと帰ってやりな。俺は別件なんだがねぇ。姿を見かけたら言付けてくれって頼まれちまった」

あの狸、人を使う才能に長けすぎだ、と零す口調はどこか面白がっているように聞こえる。だが傷が再び痛み出した玄次が何も答えずにいると、その声は一変した。

「その腕、使えるのか?」
「かろうじてな」
「へぇ、そうかい。動くだけなら、赤子だって同じだろ」
「承知している。常なら見抜ける罠に気がつかなんだ。へまをしたわ」

言われるまでも無いことを揶揄され、玄次は小さく舌打ちをして答えた。 主に偵察の腕を買われている忍なら、たとえ怪我をしていても動ける内はすぐに仕事がなくなるわけではない。 だが困るのは、里に戻ってからのことだ。これからの農繁期には、忍もそうでないものも全てが田畑を担う働き手になる。

「この腕では鍬が握れぬ。名主がいい顔をすまい」
「困るのはそっちか。うちからの実入りだけじゃ、細君を食わせてやれないしな」
「いまの名主は、幸い先代よりは人柄が良い。おれが働けないとしても、無情に追われることはないと思うが」

だが、生活が苦しくなることは明らかだった。里を取り纏める名主とても、働けないものを養うのは不本意だろう。 それに何より、佐助の言った妻のこともある。積み上げてきた信用もさることながら、これからの働きも期待された上で妻帯を認められた下忍は僅かだ。 去年婚姻を結んだばかりの玄次が功を焦り、警戒を怠ってしまった理由はそこにもあった。

「それにな、再来月ややが生まれる」
「本当か?」

その驚いたような声は、彼にしては珍しいだろう。しばしの間の後に、めでたいな、と静かに付け加えたのを聞いて、玄次は微かに笑みを浮かべた。 だがすぐに暗い表情へ戻り、口惜しげに顔を歪める。

「だがこのままでは近い内、三人路頭に迷うやもしれぬ」

気の毒にな、というおざなりさが滲む相槌も聞き流し、姿は見えないと知りつつ玄次は声の方向へ顔を向ける。

「ここで会ったのも何かの縁。そう思うて、お主に頼みがあるのだが」
「うちの隊への口利きなら、無理な話だ」

間髪を入れずに答えると、あんたなんかに入られたら志気が下がる、と男は追い打ちをかけるように言い添えた。

「俸禄の身も、それはそれで楽じゃないんでね。大体、そんな腕で戦から戻って来られると思ってるのか?」
「おれはこれでも甲賀だ。策謀だけは年の功がある。それに刺し違えでもすれば、手柄首のひとつくらいは立てられよう」

「ああ、それじゃあ無理だ」

背後から聞こえていたはずの声が、玄次の間近で響いた。
驚いて顔を向けると、背を預けていた祠の反対側に、いつの間にか旅装の男が立っている。身の丈は玄次と同程度。 目立つほどの体格でもないが、目深に被った笠に隠れている髪の地色は燃えたつような朱だ。それが戦時の彼を鬼神と呼ぶ由来のひとつでもある。

いまこちらへ向けている顔は表情一つ動かないが、そこにある瞳は、やはりどこか常人とは違った光り方をしている。戦時の彼を知らない玄次には、初めて見る面構えだった。 それが常態なのか、剣呑な気配を漂わせたまま男は淡々と話す。

「その皮算用が上手くいっても、当人がいないで、名主が細君に恩賞分の銀銅を渡すと思うか?どこの里でも、そこまでのお人好しはいないだろうよ」
「だが、このままでは」
「あんたも忍びだろ?逃げても生きることを考えろよ」

これだから里心のついた忍はやっかいだ、と佐助がうんざりしたような声で零したのを聞いて、玄次は乾いた笑い声を立てた。

「あるじ殿など持つ忍びずれが、それを言うか?我等は忠義とは無縁のはずだがな」
「おや、これは一本取られたね」

男はさして気にした風もなく飄々と笑う。ざ、ざ、と音を立てて吹き抜けた風が、巨木の枝を大儀そうに揺らす。
所詮戦に於いては駒に過ぎない扱いにも関わらず、裏に意を異にした目的でもあるのかと思うほど、 佐助の働きは激越で徹底していると聞いていた。それは忍の大部分が一時の雇用関係を見越し、命までは賭さないのとは正反対だ。 いくら召し抱えられているとはいえ主の為なら盾になることも辞さない振る舞いは、忍というよりも武士に近いのではないか。 そんな男が、玄次を忍らしくないと諭すことが可笑しかった。

男は玄次の心中を知ってか知らずか、笠を少し上げるとこちらを見て、目を光らせた真顔のまま顔の皮だけで笑った。

「それで?あんたは今、後悔してるのか?」

問いに答えようとした玄次の声は、横手の繁みからした物音に遮られて口から発せられる前に消える。

身構えて視線をほんの一瞬草むらへ向け、そして戻すと、すでに祠の側には誰もいなかった。先ほどまでは男の背景だった木々が素知らぬ顔で連なっているだけだ。 獣に似せた微かな草を踏む音が二間ほど離れた場から聞こえた気がしたが、それもすぐに聞こえなくなる。 あたりが静かなざわめきだけを取り戻すと、我知らず詰めていた息をそっと吐いた。

おそらく、と玄次は草に埋もれた見えない路を見るように、目を細めながら思う。

忍びらしさよりも手元に置いておきたいなにかを、あの男も持っているのだ。
それが幸か不幸か、当人にも分かっていないのかもしれないが。

だが執着は扱いを間違えれば身を害する甘露の毒でもある。心だけがまともな人間に近づいてしまった為に手傷を負った己が、その証拠だ。 やはり忍びとしては先が長くないだろう。あの男はこれからも、巧くやるだろうか。

とりとめのない思考を漂っていた玄次は、ふと思いついて祠の前に立ち、腐りかけた格子の扉を開けた。 古さを感じさせるからりとした匂いが満ちた空間には、ひとつだけ幾分か新しい木彫りの仏像が置かれている。掌に収まりそうなそれは誰かが寄進したものらしい稚拙な造作ながら、 眠る子供のようなあどけない気品が漂っている。こんな寂れた祠にも、形になった切実さを寄越すものがいるのだ。

唐突に、これを子への土産にしたいという思いが沸き上がる。
玄次は野卑な仕草で躊躇無くそれを掴み取ると背へ括り付けた包みの中へ押し込む。 そして信仰とは無縁の強かさを貌に乗せ、足下からどこかへと通じている道を再び歩き出した。







蛇足
忍の生業。忠義を誓う主がいる忍は忍といえるのか謎です。
ていうか。バサラでやる意味が…。(今更)

名主、もしくは村主(すぐり)は土着の忍で、里から身分を保証して武将の元へ忍を派遣し、その給金の中から手間賃を取るらしいです。 妻帯するのは決まった収入がない下忍にはあまり一般的ではないようですが。甲賀は伊賀に比べて自由度が高く、 開かれた地域だったので妻帯もありかと…。猿飛佐助は甲賀で修行した経験がないそうですが、そこは無視でお願いします。 知識はもろもろ孫引き&オンライン検索で手抜き。時間が在れば原典に依りたいけどキリない…。

<<


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送