水際にて




江戸の日本橋界隈から少し離れた所にある簡素な田舎屋から、そこをねぐらにしていた老人の気配が消えてもうずいぶん経つ。 すぐ近くの長屋では彼と顔見知りだった住人たちが時々、とうとう惚けてどこかにいっちまったんだろう、 いやあの人は足腰もしっかりしてたし娘さんも時々様子を見に来てたじゃないか、急にいなくなるのはおかしい、等と言い合うこともあった。 だが結局はさしたる解決策も見つけられないまま、なんとなく日が過ぎていた。

だがその長屋に父と住み、老人とも親しくしていた菜江は彼の行き先に多少の心当たりがあったので、一人娘の義務として父の仕事を手伝うかたわら、 隙を見て川の辺を幾度か歩いた。

湿り気を帯びた水無月独特の大気は、歩き続けているとうっすらと汗が滲む暖かさで漂っている。足早に通り過ぎる川沿いの道は人通りも多く、賑やかな気配に湧いていた。 夏のような陽気にそそのかされたのか、川の近くにはいつもより荒々しいその流れに石を放ったり、好奇心を漲らせた瞳で水底を覗き込もうとしている子供の姿がある。

浅草界隈で死者が出るほどの増水をもたらした大雨が、関東一帯に降り注いだのは七日ほど前になる。 いま眼下に広がる川の水面は気を付けて見れば流れる速度が増しているということ以外、代わり映えのしない安定した姿を取り戻しているが、 草のなぎ倒された岸に目を移せば大小の石や流木に混じって、笊や下駄や鍋といった生活用具までもが半壊した姿で投げ出されていた。

元の色もわからない布の塊から飛び出してきた蛙を避け、泥にまみれたしゃもじを踏みつけて緩い勾配を下っていくと、 川岸で石を投げていた子供のひとりがこちらを見て手を振る。菜江は細い枝を大げさなほど地へ垂らしている柳の影へ入り、そこに腰を下ろした。 川面には目に染みる光の粒がちらちらと絶え間なく舞い散っている。それがあまりにも眩しくて、目を細めてみても対岸の様子をはっきりと伺うことは出来なかった。


人の良さそうな顔をした小柄な男が徳川の名で天下を睥睨してから数十年を経た。江戸は規則的な律動を維持し続けて、 いまは都合三人目の将軍と呼ばれる男が天と地の間に収まっている。元号も寛永と変えられて10年を過ぎ、関ヶ原での決戦からはすでに35年以上が経過した。 泰平という言葉の意味を改めて考えることも少なくなった頃に生まれた菜江には、江戸という町の生活は至極当たり前のものだ。 今年で十四になった彼女の家には母親がいないが、父と長屋の者たちに可愛がられる日々は裕福では無いにしろ不幸とは縁遠い。 長屋の面々は彼女の父のように物売りを生業にしている若い衆が多く、動乱に翻弄されていた時代を知るものはほとんどいない。

その中でひとり庵に住んでいる「申のご隠居」だけは、武士の刀が錆びる暇のない時代のことをよく知る人物だった。年のためか元々なのか、 朱に近い茶の髪を無造作に結い、顔面どころか手の甲や足も皺に覆われたその老人は、菜江の知る中では一番高齢だろう。 正確な年齢は当人も知らないと言うが、少なく見積もっても六十は越えているはずだ。

彼はいつも本人に似た簡素な庵の戸を開け、背を丸めるようにしてそこに鎮座していた。朝は若い衆が仕事に出ていく様子を、 昼は長屋の子供やおかみさん方が行き来するのを、福助のような表情で見つめている。彼自身がどこかへ出かけることは稀だが、 それは足腰が弱っていたからではない。見た目の年齢に反して言葉や身体の動きには大きな支障もないようで、疲れたときなど曲げていた背を伸ばし、 拳で軽く腰を叩いている様子を見れば、わりあい骨のしっかりとした体躯だということも知れた。

「そんなんじゃ飛ばないだろう」と老人は戸口の中から、のんびりとした声を出して菜江に話しかける。菜江が5つかそこらの時だ。 彼はひょいと敷居をまたいで表へ出てくると、菜江の手にある竹蜻蛉に目を落とす。とっつぁんが作った、と菜江が答えると、 こいつぁ羽の形が悪いんだなと言いながら簡素な玩具を受け取って小屋に戻り、器用に小刀を滑らせて羽の形を整えてから菜江の手に返す。 乾いた老人の皮膚に触れたのは、それが初めてだった。竹蜻蛉は空高く良く飛んだ。

ひとり暮らしをしている彼の家には、日本橋の近くに料理屋を出して切り盛りしている娘が時々訪ねてくる他にも、 近所の女たちが料理を持っていったり男どもが囲碁の相手になったりと、人の出入りが多い。口々に親しく、 ご隠居と呼ばれたり申のお人と呼ばれたりする老人の本名を菜江は知らないが、 何か心の浮き立つ事があった時分に「申の刻も過ぎた身にいっそかたじけない」と笑う彼の口癖からいつからかそう呼ばれるようになったことは知っている。 彼はものを良く知り、また教えることも上手く、柔らかい物腰を持ちながらも口の達者さでは若い衆にも負けない。 そのわりにはひとりでいることを好んでもいるようで、長屋の人々が酒宴へ誘っても滅多に応じなかった。

「今度祭りで芝居がかかるな。お菜江、見に行くのかい」

白茶けた道に風鈴売りの声が長く朗らかに響いている。暮れかけた陽に照らされた土埃が、うっすらと視界に立ち込めている夏の夕方だった。 神社の境内で遊んだ帰り、もったりと尾を引く蝉の鳴き声の中を並んで歩いていた菜江に老人はそう水を向ける。

「父ちゃんが忙しいんだ。かきいれどきだって」
「あたしの手じゃ、父ちゃんの代わりにゃならねぇかい?」

体の横に垂らされている老人の手を掴むと、やはりそれは乾いた感触を返した。祭りの当日は朝から菓子や花や甘い酒、 浮かれて町を練り歩く人々の汗の匂いが入り交じった空気が漂い、菜江は大いにはしゃいだが、ご隠居は彼独特のどこを見ているのかわからない瞳を空中のどこかへ向け、 口元を微かに緩めたままひたひたと歩いている。

彼は人波に混ざると、途端に自らの気配を稀薄にさせる癖があった。足運びもどこか猫のような老人の、皺に沈む表情を盗み見ながら、 紙に描かれた塗り絵を思い出すのはなぜだろうと菜江は不思議に思う。だが芝居の場へ近づくにつれてじきに忘れてしまった。

素人芝居の演目は菜江にも筋がわかるほど脚色された大阪夏の陣、真田幸村の大立ち回りだった。簡素に作られた舞台上には張り子の馬や鎧に身を固めた人々が、 その内容とは裏腹に、楽しげに駆け回っている。真田の活躍を描けば彼に一度は窮地に追いやられた家康公を貶めるはずだが、 紅の炎を操ったと言われる男の人気は人々に深く根付いている。町衆の楽しみを取り上げるのは為政の面でかえって都合が悪い。 そういう理由でお上も黙認しているということを、老人は後になって話してくれた。


菜江が十を越えても、老人は相変わらず小さな庵に飄々と暮らしていた。自分のことはどうでもよいというようにはぐらかすが、なぜか相手に不信を抱かせることは少ないらしい。 その頃になると菜江も老人について、人々がおおっぴらに話さない噂のいくつかは知っていたが、だからと言って日々の生活には何も問題はない。 かつてあったことが現在にも影響を及ぼすということを、彼女はよく知らなかったし、その点でいえば彼女はやはりまだ子供だった。

菜江の手元を見ながら、手際がいいねぇ、いい嫁さんになるよ、と満足そうに頷いている老人は、珍しく父と二人で酒を傾けている。 ある年の初夏の夕方、唐突に家を訪ねてきた彼は娘が持ってきてくれたという茗荷を、ひとりじゃ食いきれないからと菜江に笊ごと差し出した。 いま包丁を握っている菜江の横にある目の粗い笊の中では、植物独特の上品な艶が行灯の灯りに光っている。

「こんな娘もらってくれる奴でもいりゃあ、熨斗つけて差し出すってのに」
「父ちゃんに似たんだから仕方ないよ」
「ご隠居、口の悪さが治る食いものってな無いのかね」

香りの高いその食材を和え物にして二人の前に置くと、憎まれ口を叩いていた父も黙って口に運び、旨いな、と素直な感想を漏らす。

「そういえば、いつだったかお前、もらいもんの茗荷を全部剥いちまったな」
「4つか5つの頃でしょ」
「そりゃあたしも覚えてるね。なんせ籠ひとつ分だったから」

保たねぇから食うのに近所の奴も呼んで大変だったよなぁ、と父はむくれる菜江に酒臭い息を吐きかけて愉快そうに笑う。

「一個か二個で、剥いてもなんにも出てこないってわかるはずだよなぁ。餓鬼ってやつぁ、どうしてそんなしょうもない事をするんだか」

そう言い添えながら空になった徳利をひっくり返し、酒が切れちまったな、与三郎に貰ってくらぁ、とふらつく足取りで表へと出ていく。 箸を使わず、皺だらけの指で茗荷をつまんで食べていた老人は、菜江の顔を面白そうに見る。

「覚えてるかい。茗荷を剥いてたとき、なに考えてたか」
「そんなの忘れたよ」

そうだろうねぇ、と老人は杯を傾け、そん時もわからなかっただろうねぇ、と続ける。

「でもきっと、楽しかったんだろうよ」
「そりゃ餓鬼だもん」

そうだなぁ、と彼は相互を崩す。皺に埋もれた目が酔いのためか、少し潤んでいるように見える。楽しいだけでいいのが子供だな。それだけだなぁ。 独り言に近いその台詞は、いつもにはない隙のある言葉で、菜江は少し戸惑った。だが彼はそれ以上何も言わず、父が帰ってくるまで綺麗に色付いた茗荷を指先で掴み、 黙々と食べていた。


大雨が降り、川が氾濫し、そこに町が飲み込まれるという災害は、これだけ整った江戸でも防ぎようのないことらしく、菜江が知っているだけでも三度は起こっている。 だからそこにあの老人が巻き込まれたとしても、それが理不尽でやりきれないことであっても、有り得ないことではない。 老人がいなくなったのが丁度大雨の降り出した後だったので、長屋のものの中にもその予測を口に出す者がいた。 だが目の前にある川は洪水の恐ろしさなど肌で感じたことのない菜江にとって、ゆったりと広がる絹の布のようにしか思えない。 鴨が不格好に羽ばたきながら速度を落とし、微かに波立つ水面に降り立つと、広がった波紋がまた光を川一面に投げる。

娘の店から帰るところだったらしい老人と偶然出会い、一緒にこの川縁を歩いたのはつい半年ほど前で、冬が居座り始めた頃だった。 雪が降り出しそうな暗い空を二人で見上げ、早足で歩いてきてこの川にさしかかった時に、老人は一度立ち止まり、半歩後ろにいた菜江を振りかえる。

「ここから何が見える?」

老人は、空の色を映して曇っている川面を見ながら聞く。あちら側に生えている草も濃い色に沈んでいて、こちらと同じ土手になった対岸が見えるだけだ。 そう答えると、老人は妙に納得したように頷いて、また歩き出す。菜江はその背中に追いつき、横に並んで聞く。

「ご隠居はなんか見えた?」
「あたしも同じだよ」

向こう側にも、足早に歩いていく人影がぽつぽつと見える。川の真ん中に鏡があるようにそっくりだ。 進行方向のはるか先には、牛の牽く荷車が楽に通れる程の大きな橋の欄干がくっきりと見えている。行ってみたら違うかもしれないがねぇ、と呟いた老人は、 菜江の視線を受けてはらりと笑い、

「前の大水はたしか、独眼の竜殿が瞑目したときだったかね」

と唐突に問いを寄越す。伊達家の十七代当主は昨年の春に没したが、それが洪水の日と近かったかなど、菜江は覚えていない。彼はまた川を見ていた。 もういいか。そう誰かに聞くようにたしかに言った。昔から、どこにも目的がないと思っていた彼の特有のあの目は、実はたったひとりに向けられていたのではないかと、 なぜか感じた。老人は菜江にした質問も忘れたかのように、先に見える橋に向かってすたすたと歩いていく。 曲がった背で組んでいる手は、筋が目立っていて柿の木のような色をしている。

寒さのためか父の人徳か、菜江の家に夜ごと人が集まり、冬の厳しさを忘れようとそれなりに賑わしくなるにつれて、老人はひとりで家に居ることが増えた。 しかしそれはいつものことでもあった。

耐えるための季節が過ぎるとほどなく春がやって来て、そろそろ長雨の時期にさしかかろうというある蒸し暑い夜、老人があの初夏のように唐突に家を訪れた。 戸を叩く音に、高鼾をかいている父をよけて外に顔を出すと、老人が戸口の前に立っている。彼は提灯を駄目にしてしまったので今夜だけ貸してくれないかという。 乾いた手に火をいれた提灯を渡すと、彼はそれを少し掲げ、こんな夜中にどこへ行く気だという顔をしている菜江に光をあて、その顔をしげしげと眺めた。

「お菜江、いくつになった」
「今年で十四」

彼は何も言わず目を細めた。菜江はしばらく、暗い夜道にぼんやりと遠ざかっていく背中を見ていたが、戸を閉めようと身を引いた時、その仄かな灯りが消えるのを見た。 そこは周りに人家のひとつもなく、灯りが無ければ自分の手も見えないような林にさしかかったあたりだった。彼には始めから、灯りなど必要なかったのだろうか。 人影はもう輪郭すら見えない。


それから今日まで老人は庵に戻らず、彼の娘とその夫が訪ねてきてもどこにも姿を見せなかった。夕方が近づき、川縁は少し風が強くなる。 背後から聞こえた父の呼ぶ声に、菜江は立ち上がると土手を上った。そこから見下ろすと、黄味がかった陽が川面をずっと遠くまで照らしている。 向かい側の土手には、ぱらぱらと撒かれたように人が見える。唐突に、思いついたことがあった。

「またここにいたのか」
「向こう側って、行ったことないね」
「なに?」

待ってて、と言い残すと、呆れた顔をしている父を残して菜江は近くにかかる橋まで走った。板を鳴らしながら歩を進めると、真ん中当たりで立ち止まり、 ささくれた粗末な欄干に手をかけて少しだけ身を乗り出す。するすると流れていく水を見ていると、なんだかずっと勘違いをしていた気がした。 欄干から離れると菜江はまっすぐ向こう岸まで歩いた。橋を渡りきると父が所在なげに立っている姿が見えて、菜江は笑って手を振ってみるが、腕組みをして応えてくれない。

そこからは、いままでいた場所がよく見えた。柳が所々に生えた緑色の土手の向こう側に、民家や商店の軒が寄せ木のようにきっちりと並んでいる。 いま菜江が背にしている風景とよく似ているが、同じではなかった。彼が帰ってきたら、そう言おうと思う。 老人は何かを隠すことはあっても、菜江に嘘を付いたことはないのだ。借りた提灯はきっと返しにくるだろう。

老人は、どこへ渡ったのだろうか。ここに立っても、彼の見ていたものは、やはり菜江にはわからない。だが彼も、菜江に見えているものは見えなかっただろう。 それなら、ふたりの視線の輪のどこかに、重なっているところがあるかもしれない。

菜江自身が忘れても、彼女の言葉や、視線や、笑い方のどこかには、きっと彼が持っていた大事なものが、 少しくらいなら残っているだろう。それが誰かに伝わったら、川よりもずっとどこまでも続いていくのだろうか。菜江は水の流れる方向を見た。 川面には数羽の鳥がいて、土手には寝転がる人影があり、川には目もくれずに通り過ぎる人もいる。

父がいつまでも戻ってこない菜江に業を煮やして、川縁から離れていく。 菜江は慌てて橋を駆け戻り、渡された籠をひとつ肩にかけて、砂埃が舞っている賑わしい町に戻った。 足下の道は乾いて、夏に似た明るすぎる日射しが家や、人や、軒先の品物や、荷車の輪郭をぼかしながら照らしている。







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