猫の場所 




遠いここではないどこかの場所で、大勢の人間が声を上げている。それが自軍の勝ち鬨だとわかると、佐助はその場で足を止めた。
もしそれが聞こえなかったとしてもそれほど長くは立っていられなかったかもしれないが、一応のきっかけを与えてくれた彼らの声に感謝した。

我知らず安堵の息が漏れる。間に合ったという思いが、痛みには耐えられた足の動きを鈍らせる。側にあった木に手をつくと、そのままゆっくり重力に従った。 草もまばらにしか生えていない地面は寝心地こそは良くないが、こうしていると修行を抜け出して隠れ家にしていた大木の虚で眠ったことを思い出す。 なるほど、と佐助は納得した。死ぬ間際というのは、過去の記憶が脳裏に蘇るものらしいと聞いたことがある。 そんなことを死んだ者が伝えに帰ってくるわけがないのに、どうしてみんな知っているのだろう。

指先が震えている。たしか今は初夏だ。
この寒さは心の奥底から沸き上がってくるようでなんだか不思議だった。

地面へ寝ているいまの姿勢では見えないが、腹の傷は浅くない。先刻からの出血を考えると脾臓のあたりを掠っているかもしれない。 だが、自慢の足を守れたのは幸いだった。自軍の勝利が近いと確信を得た後に、人に見つからずここまで来ることが出来たのだから。

それは知っているというよりも、願望なのだろうと思っていた。

だがいざその時になってみれば、考えもしないことが次々に目の前をよぎる。しかも眠っている時の夢より、主体が鮮明に自分である感覚の中にいる。 地面へ背を付けている己の体を感じながら、過去へと意識だけが泳ぐ。
あれは、白い獣の姿だろうか。
夏草に埋もれるようにして、もう動かなくなった小さな塊。

痛いという言葉の意味を忘れるほど、戦場の喧噪からは遠く離れた。
ここにあるのは、猿飛佐助という存在ではない。還ることを受け入れた、ただの[ししむら]だ。
その場所にこんな寂れた山中を選んだのは、味方の志気を下げないためにほかならない。それ以外の理由を、自分の中に認めるわけにはいかない。

まったく、難儀なものだ。思わず零れた声は思ったよりも弱い響きしか持っていなかった。心の中だけで諦めに似た笑いを浮かべる。
自軍の勝利に貢献し、主も無事に陣へ戻った姿を見届けて、あとは何を望むというのだろう。

彼の下で生きると誓った日を、つい先日のように覚えている。
いやそうではない。
先ほどから繰り返し立ち現れる過去の記憶が、そう錯覚させるだけだ。実際には、多くの時が流れている。
幸村と交わした言葉の数は、いったいどれほどになっただろうか。
幾度も共に戦場へ赴き、その数だけ共に帰路を歩んできた主。
いま顔の上に影を落としている枝振りのいい木が生きる年月などに比べれば、自分たちの生などほんの一瞬だろう。それでも、佐助にとっては全てだった。
その一瞬に、全てがあったのだ。

ああ、と声を出したのが自分だとはじめは気が付かなかった。
近づいてくる気配に呼応するように小さく、その音だけが唇から漏れる。
だめだ、来てはだめだ。
嫌な予感は、地面に近いところへ顔をよせている佐助の耳に、はっきり近づいてくる馬の足音として届く。 思惑が全て無に帰すかもしれない恐怖に、佐助はいつのまにか閉じていた目を開けた。

大地を揺する蹄の響きが止み、そこから誰かが降り立つ。
いつもの聞き慣れた、大股で歩く右足だけに少し癖のある歩調。

「探したぞ」

こんなに分かりにくいところへ隠れおって。彼の静かな怒りを込めた口調が聞こえ、次いでその顔が目に入る。 普段よりも、少し青白いだろうか。無傷ではないが致命傷もなさそうな様子に、佐助は笑顔で応えたかったがそれは叶わなかった。感情はいつも邪魔をする。

「何で、来たんだ」

責めるような声に、幸村はまるでそう言われるのが分かっていたかのように平然とした顔で佐助を見ながら、小さく笑う。

「おまえが本気で怒っているのを見るのは久しぶりだ」

血の気が引いたままのその表情。その、声。

「旦那。俺が、どれだけ苦労して、ここまで来たと思ってるの?」
「知らぬ」
「なんでこんなところにいるのか、わかってるだろ?」
「知らぬ」
「俺にも、意地があるんだよ」
「そんなもの、知ったことか」

ひとつづつ確かに否定されるたびに、声が震えるのを止められない。

小さな猫。
屋敷にいつのまにか居着いた獣は幸村の気に入りだった。それが病にかかっていると最初に知ったのは佐助だ。 程なくして姿を隠したその獣を、誰も立ち入らない雑木林の奥で見つけたのも。 なぜ俺の前に現れる。おまえを必死で探していたのはまだ幼い幸村の方だったのに、どうして俺の前にその隠したかったはずの姿を見せるのだ。
艶を無くし強ばった小さな白い獣に問いかけても答えは返ってこない。
だが、死骸の語る雄弁な言葉を、佐助は確かに受け取っていた。

おまえは同類だ。

名を呼ばれ顔を上げる。そこには白い猫を失って悲しむ少年ではなく、業火の中で修羅を飼い慣らしてきた男がいる。

「おまえの都合など、俺は知らぬ」

知りたくもない。
一声で切り捨てられた佐助が次の言葉を探す前に、その背が地面を離れた。幸村の背に担がれたかと思うと乱暴に馬へ乗せられる。 柔らかいたて髪へ顔を埋めるようにしている佐助を押さえるように、体を前へ倒しながら幸村が手綱を引いた。
暗い森が見る間に遠くなる。

「旦那。ひとつだけ、言っていい?」

何だ、と低い幸村の声が背中から響く。
体全体に温度を感じる。
馬の血液と筋肉が動く音が、独特の臭いと薄い皮膚の下から聞こえる。

「俺さ、あんたがずっと、苦手だったんだ」

不服そうに唸る声に思わず口元が緩む。
寒さは去らない。だが指の震えはいつのまにか消えている。

「あんたが主でなけりゃ、側にいなかったかもね」
「こんな時に憎まれ口とは暢気な奴だ。もう、黙れ」

片手で馬を操りながら、もう片方の腕でしっかりと馬と佐助の体を縫い止める。 言葉には乗せない彼の感情が、背中越しの熱と振動に転化されて届く。

「だけど、あんたは、俺の主だったよ」

あんただけが。
彼の体が震えている気がするのは、馬の動きに己の体が揺り動かされているからだろうか。
佐助、と聞き慣れた声が頭のすぐ後ろから聞こえる。

「おまえは今日、あの森で死んだ」

昼の温もりをわずかに残していた土の感触が蘇る。一度は終わりに選んだ場所。 猫のいた森に似ている、穏やかな静寂がそこにはあった。未練も、執着も捨て去れるはずだった。

「今ここにあるのは、俺が拾った命だ。おまえの自由には、させぬ」

だが自分は、死に場所を求めたあの猫と同じではない。同じにはなれなかった。

目の裏に白く焼き付いていた躯の形が、徐々に薄れていく。
衰弱した体に陽光が降り、風が通り過ぎた。
内と外には熱と、鼓動がある。
黄泉路からは遠いその響きが、空になりかけた器を満たす。
急に目の前で光が乱反射した。脈打つ馬の背に、溢れた涙が落ちてはすぐに消えていく。

勝手すぎるよ、旦那。
呟いた佐助の意識を、馬の背の柔らかい闇が覆っていく。
休もうとする肉体の要求を無視して薄く瞼を開くと、紅い鎧が陽光に幾度も幾度も煌めいている様子が目に映る。 まるでこちら側へ繋ぎ止めるよすがのようなその光から、佐助はいつまでも目を離すことが出来なかった。

距離も時間も消え失せ、馬はどこまでも走る。







蛇足
瀕死話。自軍の勝ち、幸村の無事があれば、佐助にとっては不幸ではない、かなと。望まないことで己を守っているような男には、 あんな形で迎えに来られることが一番堪えるでしょう。いろんな意味で。屈折しすぎな気もしますが、佐助はこれくらい悶々と悩むのもありかと。幸村はたぶん男前だと思います。(心意気が)

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