おぼえていない




顔の上を影が横切り、見上げると雲雀が高く鳴きながら枝を探している。 薄い青を刷いた空に煙のような雲が微かにたなびく様子を眺めていると、このままどこかへ行ってしまおうか、という思いが佐助の頭を掠めた。 もちろんそんなことは有り得ない上に隙だらけの姿で暢気なことを考えながらも、背後に迫ってくる下手な気配にはだいぶ前から気づいていた。

小鳥はあんなに季節を謳歌しているというのに、どうして人はそれが出来ないのか。皮肉ではなく、本当に不思議だった。

意を決したか、背後の人物は大声を上げながら突進してくる。当人には、もはや周りは見えていないのだろう。 空は言葉を失うほどに晴れやかだが、この地上は人を狂わせる異様な熱気に支配されている。漏れず、己もそうなのだろうが、今更狂っていると指摘されても心は動かない。
それが、とりあえずの証拠だ。

武田め、死ね、と。
工夫のない一声とともに敵兵は刃の一撃を佐助の背へ振るうが、それで力尽きたのか次の太刀を振り上げようともしない。 立ち居振る舞いも一閃も、どう考えても武士ではない、ただの徴集された百姓のものだと察しがついた。

ああ、本当に、何故なのか。

夏場の犬のように激しく息をついていた男は、佐助が何事もなかったように悠然と振り返ると、驚愕の眼差しを向ける。 彼の刀には、確かな手応えがあったはずなのだから無理もない。 無言のまま佐助が腕を上げると、戸惑いの表情を見せる顔のすぐ下へ刃が沈み、そして一瞬間のうちに引き抜かれる。 喉を裂かれて、ど、と小さな地響きを立てながら倒れた男の見開かれた瞳を見ないようにして、佐助は血の滲んだ肩を押さえた。
馬鹿な男だ。逃げる勇気が無かったばかりに。

「ま、馬鹿は俺か。…悪い癖だわ」

雲雀が、苦笑を漏らす佐助の声に呼応するように鳴く。
後味の悪さを受け止め切れないなら、柄にもない憐憫を懐くことなどあってはならない。 後悔は先に立たないうえに後味が苦く、ありがたくない余韻を残していく。

肩の刀傷は、たぶん誤魔化せないだろう。
ひとつ面倒なことは去ったがその代わり、これからもっと厄介な男を相手にしなければならないことを考えて、 佐助は雲雀の姿に助けを求めるように空へ視線を移す。

心配させたいわけでも、憎いわけでもない。
きっと、どこまでいっても平行線なだけなのだ。




「百姓に用はない。頭の武将だけを獲れ」

それは今よりもっと若い頃の幸村から発せられた言葉だったが、その教えは信玄のものだったのだろう。

「敵といえど、彼らの多くは田を耕すものたちだ。それが此度の戦によって集められているにすぎぬ。 我らが相手にすべきは、彼らをまとめる武将だ。この国をつくるものたちをこそ、生かしたまま戦に勝つことが、我らの使命だと思わぬか」

幸村は熱心な瞳で、崇拝する男からの教えを自らに言い聞かせるように話している。
ひとつの区切りとなるべき戦を終え、安堵と疲労の中で家路を辿ったその数日後の夜、幸村の部屋に呼ばれた佐助は先ほどから若い主君の言葉を穏やかな神妙さで聞いていた。 彼の話の意図はすでに察しがついているし、こうして恥ずかしいほどの正論を熱を込めて話せる彼を好ましいとも思う。

だがどうしても、己の内に沈んでいる暗い感情が表へ出たがっているのを感じずにはいられなかった。 それが顔に出てしまったのだろう。あの頃はまだ、佐助自身もいまより若かったのだ。

なにか言いたいことがあるか?申してみよ、と他人の表情の変化に驚くほど目敏い幸村が主人然とした言葉を紡ぐのを聞いて、佐助は思わず笑いを零した。 何を笑うのだと憤慨した様子の幸村に、佐助はきっぱりと言い放つ。

「旦那、忍に説教する気なら、顔洗って出直すんだな」

なんだと、と気色ばんで腰を浮かせる幸村を鼻で笑い、佐助は足を少しだけ崩して主を見据えた。その瞳にちらつく陰りを持った怒りに、幸村は唾を飲み込んで口籠もる。

「旦那と俺じゃ、立場が違う。俺を使うのが旦那の仕事だ。だけどな、あんたの願いを叶えるために何をしようが、俺が説教されるいわれはない」
「しかし、」
「わかんねぇのか?何見て来たんだよ。あんた」

佐助のいつになく棘のある物言いに、幸村は膝の上で拳を握りしめながら声を荒げる。

「わからぬ!おまえは忍だから、ただの百姓であった兵を躊躇なく殺していいというのか?」

甘いんだよ。
低く唸るように呟くと、佐助は幸村の目を受け止めて睨み返す。主に対しての物言いがどんなに無礼だろうと、ここだけは引くわけにはいかなかった。

「百姓だろうが商人だろうが、一度武器を取ったら、そいつはもう旦那や大将の首を狙う敵兵だ。あんたらを殺すのは、武将の刀だけとは限らない」
「そうだとしても、逃げる彼らを追ってどうする?ほとんど武器も持たぬものを」
「あれは、むこうの大将に俺たちのことを伝えに行くところだった。必要ないことを俺がするはずないだろうが。あんたよっぽど、俺を鬼かなにかにしたいんだな」

ざ、と音を立てて片膝を立てると、幸村は佐助の襟に力任せに掴みかかり、叫んだ。

「違う!そんな態度をとるから、おまえは、」

そこまでまくしたてたところで、幸村は唐突に口を噤む。
まるで恐れるようにゆっくりと手を離し、目を逸らした彼の様子に、佐助の内で沸き上がっていた暗い感情が静まっていく。目の前で精神の苦痛に耐える男が、急に小さく見えた。 言葉が過ぎたという苦い後悔が胸へ這い上がり、それを和らげるために、佐助は努めて穏やかな声を出した。

「旦那。俺のことを、誰かに何か言われたな?」

まぁ、あんたに直接言うわけねぇか。聞いちまったんだろ。そう予測を口にすると、目を伏せたままの幸村の沈黙が答えとして返ってくる。 やれやれと声に出して言いながら、佐助は手の付けられていなかった茶を一口飲む。こころなしか渋さが増した茶は掌の中で揺られて、曇り空のように濁っている。

「どうせあれだろ?真田の忍は血も涙もないとか、冷徹で人とは思えないとか、」

深い緑に濁っている茶を眺め、なぜここで己の悪評を並べなければいけないのだろうと思いながら、口だけが勝手に動く。

「いっそ本当に人ではなくて化け物だと、」

「やめてくれ」

幸村は静かに言葉をさえぎると、先ほどの激しさを嘘のように収めた表情で佐助を見る。

「そのような言葉、おまえから聞きたくない」

佐助は苦い茶を飲み干した湯飲みを置くと、ふと笑う。それはさきほどのような、険のある笑いではなかった。

「さっきは悪かったよ。だけどそんなこと、言いたい奴には言わせておけばいい」

それにどうせ、半分くらいは当たっているのだ。

「俺が許せない」

懸命に首を振り、幸村は握った拳を微かに震わせている。
自分の為に怒りに身を任せている幸村の姿こそが、佐助の心を乱すことを本人はわかっていないのだろう。 この感情は戸惑いだ。そして恐れでもあり、歓びでもある。
おまえのことを罵るなど、我慢がならぬ。幸村は膝に置いた手に視線を落としたまま、呟くように語る。

「だから、おまえの真を、聞いてみたかった」
「やだねぇ旦那、自分の目を信じなよ。俺が嘘つきなのは知ってるでしょうが」

笑って茶化そうとする佐助の目を、幸村が捉えた。その瞳は強い信頼とともに、拭い去れない困惑をわずかに、だが確かに潜ませている。 いつまで経っても埋まることのない立場の違いと同じように、自分は彼のその戸惑う感情とも、終生向かい合わねばならない。
試すようなことを言って、すまなかった。潔く謝る幸村に、本当はこちらから言うべきだった言葉を取られ、佐助は曖昧に笑う。

「いいってことよ。旦那たちが、さっさと世の中を丸くすりゃいい話だしな。そうしたら、俺だって楽できるってもんだ」

幸村はひとつ頷くと、何処までも真っ直ぐな笑みを浮かべる。

「約束しよう」

月並みな言葉だが、その声は確かに、穏やかな速度で染みていく。
きっとこの声だけは、生涯忘れられないだろう。

「ま、期待してますよ」
「その声は、期待しておらぬな…」
「鋭いじゃないの、旦那」

悪態をついて笑う佐助を、幸村は困ったような顔で見ていた。


あれから、戦のことは互いに多くは語らない。だが数年経った今でも幸村は時折、戦場から帰ってくる佐助をあの日と似た眼差しで見つめた。
それは必ず、佐助が柄にない無様な行いをした日だった。

約束を覚えているか。

無言の視線に、必ずそう付け加える瞳の色は、いい加減この世を見限りたいと思う心を静かに溶かしてしまう。

不覚だった。
あの声が、その目が在る限り、自分には覚えていないと悪態をつくことすら出来そうにない。 こうして、闇雲に、手探りで、本当は訪れて欲しくない約束の日を待つだけなのだろう。
人以外の何者にもなれずに。

もうすぐ戦の灯は消える。
雲間から射す絹の帯にも似た光が、遠くの戦場の一部を照らしている。 そこだけ、時は死んだように静かだ。空の色が憂いを帯びたように変わり始める。

さまよう雲雀はやっとどこかへ住処を得たようだが、自分の身でさえ持て余す戦場の者はみな、居場所を得る才能を その小鳥ほどにも持ち合わせていないのかもしれない。
そんなことを考える己のある種の暢気さに、佐助は自分自身へ向かってやれやれ、と声に出して呟いていた。








蛇足
もしも僕がつまらない大人になってしまったら 君は許すのだろうか きっと許さないだろうね

スパルタローカルズ「ハート」

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