病む男 障子の向こう側に留まっている不穏な気配を私が感じられたのは、両端から思いきり引かれた糸のようになった神経が、 そこへ触れた存在を大きすぎる振動として返してよこしたからだった。 それほど気配は微かなもので、普段の私なら気がつかないままにこの世を去っていたかもしれない。 虫の声が先ほどから聞こえないのは彼らも屋敷内の異変を感じ取っているからだろう。夜気に混ざった微かな生臭さは戦場で嗅ぐものとは別物のように感じられる。 入ってきてくれ、と半ば頼むように淡く光を返す白紙の扉へ声をかけると、滑らかな動きで開かれた障子の間から夜の空間とひとりの男が姿を現した。 蝋燭の灯りだけで照らされた姿の中にも、あまり見かけたことのない色の髪が目を引く。 男はそれを尚更誇示するように後方へ流し、その下の顔は捕らえどころのない表情を浮かべている。 「御高昭頂き光栄の至り、とでも言えばいいんですかね」するりと伸ばした姿を障子の端に軽く預け、男は川の上を石が飛ぶような韻律で話す。 情けない。男へ横顔を見せて座っている私の一声に、彼が首を傾げて腕を組んだ様子が視界の端に見えた。 「刺客をここまで上げることになるとは武家の名折れだ」 そうかねぇと男は疑うような声で唸り、この広さの屋敷にしちゃ見張りも少ない、女中もほとんどいない、とわざわざ指折り数え、私を見るとにやりと笑う。 「予想通りだと思ってんだろ」 あんたもうちの大将に負けず劣らず狸だねぇ。男の面白がるような口調につられて一瞬だけ笑みを返してしまったが、 この状況で刺客を相手にそんな顔をする自分には呆れてしまった。もう私の中では何かが終わりを告げているようだ。 「残ってくれた者たちには、すまないことをした」 「あんたらが弱かったわけじゃないさ。こっちが、上手だっただけでね」 今し方家臣たちを屠ってきたはずの男は、いつの間にか手の中に得物を弄びながらこちらを見ている。それで、どうする? 男は刃の切っ先を私へ向けたまま、多少の投げやりさを感じさせる平坦な声で聞いた。幸村殿は変わりないかと私が問い返すと、充分すぎるほど健在だという言葉が返ってくる。 「御姿だけは先の戦で拝見した。相変わらずの勇猛さに感服していたところだ」 「あの人から戦をとったら、残るもんの方が少なくなっちまう」 男は軽口を叩くが、私も彼も本当は真田幸村という男の人となりをよく知っていたのであえて何も言うことはない。 「立派なものだ。私のように、死が恐ろしいなどと思ったことはないのだろうな」 そいつぁ知らねぇが、と男はここへ来てから初めて返事に言い淀んだ。 病にかかってるようなもんだろ、あれは。 「病?」 「武士って名の病だよ。なかなかやっかいなもんだ、薬じゃ治らないしな」 先ほどから変わらない醒めた声を出しながら、蝋燭の灯りに揺られる表情はずっと、煮え切らない思いを抱いているように見える。 無駄に見えてもその実、必要最低限の動作しかしていない男にしては、その顔つきはあまりにも余計だった。 其方も苦労しているなと私が軽く声をたてて笑うと男は呆れたように僅かに首を反らし、まぁ同じ病の御方に言っても仕方ない、 と溜息混じりに障子から身を離した。 「さて、俺もそろそろ帰らないと」 「ああ。足止めして悪かった」 「謝りついでに、ひとつ聞かせて欲しいんだがね」 立ち上がった私がその言葉に頷くと、男は私の手にある刀を見ながら口を開く。 なぜ武田を裏切った? 私は刀を抜き、二人の影が揺らめいている畳の上へ鞘だけを投げ出した。 「それが世と家の為だからだ。私も聞きたいことがある。なぜその様なことを聞く?其方には興味のない話だろうに」 そうねぇ、と男は間の抜けた声を出し、何もない天井へ視線を向けてしばらく間を取る。 「あんたみたいな人は珍しいからだろうな」 私は、今更ながらに納得した。この男も私を殺したくはないのだ。 それは私がかつては武田と親好が深く、彼の年若い主のこともよく知っているというだけの理由ではないのだろう。 好んで人を殺すようなものがいないとは言わないが、それは武田の家臣には似合わない。 彼の親切とも言える饒舌は、私がもうじきこの世から居なくなることを前提にして紡がれている。 誰の中にも留まらず、自分の元へと返っていくことを承知で放たれる言葉は、私に話しているようでもあり自問のようにも聞こえる。 「そんな顔して死ぬ奴は、わりと少ないんだよ」 いちいち数えてるわけじゃないけどな、と付け足しながら私の思考を知らない男は退路を断つように一歩こちらへ近づく。 輪郭が多少明瞭になったその表情は、やはり今までに見てきた忍とは少し違うように思える。だがなにが違うのか、そこまで考えている時間はなかった。 「構えなよ。最期の舞台だろ」 家と私自身が滅ぼされようとしている時にこんなことを思うのは的外れだろうが、やはり私はこの男を心底から憎む気にはなれなかった。元々、自尽に近い行いなのだ。 彼が言ったように、いつかこんな日が来ることは充分に予想していた。 もう少し上手く立ち回れていたならと後悔がまるでないわけでもないが、ただ来るべき時が来たという思いしかない今の精神は、すでに健全さを欠いているのだろう。 残るのは、家と私の名がいたずらに貶められることへの不安だけだったが、この男が看取るならそれは杞憂だ。 主からの命があった場合を除けば、彼自身は、貶めるという行為をするほど私たちに興味がないだろうから。 付き合わせてすまないと告げると、男は心底嫌悪を露わにした剣呑な目をする。 手に馴染みすぎている刃を私の首筋へ職人のような堅実さで突きつけ、彼は吐き捨てた。あんたは面白いよ。でも、その病は死んでも治らないな。 薄暗い部屋の中で小さな火が揺れる。その火が消える頃には、この部屋に主は存在しない。 事が済めば男は私に興味も示さず、初めから何事もなかったかのようにここを去るだろう。 自業自得で死に瀕する者を葬るために現れる彼は、決して冒されることのない我が身を、いったいどう思っているのだろうか。 私たちの姿は、彼の目にどう映っているのだろうか。 夢の中にいるようなぼんやりとした感覚の中で、私は目の前に立つ男に何かを伝えようと必死で言葉を探しているが、 もうそれすら現実か想像なのかわからなくなり、もうすぐ燃え尽きるだろう灯りをただ目に映していた。 蛇足 ある武将の話。死人は虚しさを感じないので楽です。言おうとしていた言葉は、これからも生きる方には、きっと聞いても詮無いことです。 |
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