既知
「戻ってきたのか。残念だ」
男はソファに両足を乗せ、両腕を組んだ姿勢のまま振り向きもせずに言う。
部屋は闇に近くこの男以外には誰も姿を見せない。
男の言葉には応えず横を通り過ぎようとすると、ふ、と鼻で笑う声が聞こえた。
コヨーテは声の主に目を遣る。
闇より暗い瞳には嘲りが揺らぎ、輪郭すら見せない黒衣の中で白いシャツだけがぼんやりと浮かんでいる。
「随分、楽しんできたみたいじゃねぇか」
男は顎でコヨーテの手を指し示す。
促されて自らの左手を見ると、親指から薬指までがほとんど黒と言っていい赤に染まっている。もちろん自分の血ではない。
だからなんだ、と目だけで答えたコヨーテに男は唇を歪める。微笑の意ではなく、ただのこの男の癖だ。
「そんなことで楽しめるなんざ、結構なことだな」
コヨーテは肩を竦める。
「羨ましいのか」
「哀れだ」
微笑の位置に上げられた口角から吐き出された言葉に、血がたぎった。
「あんたは違うとでも?」
右手に携えていたリボルバーを男の眉間に据えて問う。
平時ならほぼ同時に上げられるはずの男の右腕は組まれたままだ。その代わりに闇しか写さない瞳が、貼り付くようにコヨーテの双眸を捕らえている。
「こんなところで甘んじてるお前に、俺が殺れるか?」
奴がそんなに怖いか。嘲笑が漂う。
この男が奴と呼ぶのは、いまこの場所を、世界を支配している老人のことだと知っている。
だから余計に始末が悪い。
「あんたのくだらねぇ意地に付き合わされるのはまっぴらだ。ジジィの前にあんたが消えな」
黒髪の男はうんざりしたように左手をひらひらと振る。暗闇に残像が残る。
「俺がまっぴらなのは、ここにいることだ」
「両手をついて頼めば、俺が殺ってやるよ」
コヨーテの答えに、男は心底馬鹿にしきった表情を見せる。
「お前には無理だな」
そう呟くと、唐突にコヨーテの脛を蹴りつける。手加減のない蹴りに思わず構えていた手が揺らいだ。あっという間に手首を掴まれ、腕を捻り上げられて床に膝をつく形で引き倒された。男はコヨーテの背後に立ち、腕を捻り上げたまま後頭部に銃口をあてる。
「その場しのぎの快楽じゃ満足できねぇだろ。お前も知ってるはずだ」
「だからハーマンを殺るっていうのか」
暴君は喉の奥で笑う。
「betしてcallしてshowdown。簡単な話だろ?」
は、とコヨーテが馬鹿にした声を出す。
「たとえあんたが勝っても、最初から負けてる」
あの化け物には。
全て自明のことだ。言葉にするのはただの徒労だ。
再び低い笑い声が背後から聞こえた。それは楽しんでいると言えるような声だった。
「足がもげても、最後まで踊るのがルールなんだよ…」
不意に腕を掴んでいた手が離れた。振り返ったコヨーテの頬を、男は銃底で強かに殴りつける。
ガツン、と骨に当たる鈍い音が頭に響き、思わず立ち上がりかけた膝を折った。
男はその姿に興味のなさそうな一瞥をくれると、踵を返して歩き出す。
コヨーテは憐憫を込めてその背中を見やる。
馬鹿な男だ。
滑稽さに、むしろ哀れみすら感じる。
口内の血を吐き出し、男の背中に言葉を投げつける。
「誰を殺ろうが、あんたはあんたのものになんかならねぇだろ」
自分で自分を支配できると、本気で思っているのか。
コヨーテは立ち上がる。男は歩みを止めない。
「なぁ、知ってんだろ?」
そこから動けないのは誰だ。
俺か。
お前か。
本当に支配してるのは、奴らなんかじゃない。
いつまで経っても、誰を殺しても。
あんたはあんたを作った世界のものだ。
自分が存在することで支配されている。
知っているのか。
どこか分からないこの場所が、お前の地獄だ。
無限に続くのは意味もない。ただの闇だ。
断ち切ることも出来ない絶望だけの連鎖。
「死ぬ代わりに、殺ってるんだろ」
男の姿はすでに消えている。コヨーテの独白を聞いている者は誰もいない。
哀れなのは誰だ。
俺か。
奴らか。
お前か。
なぁ。
知ってるんだろう。
「笑える話だ」
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蛇足(反転)
盗人と暴君の仲が悪い理由を考えていたらこんな感じに。
萌えでもなんでもなくてすいません。暴君がイっちゃっててスイマセン。
盗人が意外と常識人になってしまった。難しい…。