陰雨
離れの廊下は降り続く雨の湿気で歪んで見えた。
頼まれて運ぶ途中の菓子に気を配りながら、ふと庭に目を向ける。
赤い欄干の橋がかかる大仰な庭。
デポールはそういったわざとらしい形式が嫌いではない。
その橋を渡って、女が歩いてくる。
傘を差しているのは持っていく菓子が濡れないためだろう。
もし彼女ひとりだったとしたら、きっと傘はささない。
「ありがとう」
目の前に立った女はそれだけ言うとデポールの手から菓子の乗った盆を受け取る。
機能美という言葉がハマる女。
無駄な考えも無駄な所作もしないことが、この女の美徳なのだろう。
「女だてらに、すごいね」
「なにが」
「その仕事」
女は眼鏡の奥の瞳でデポールのつま先から頭の先までを見上げる。
目を細め、口の端を曲げる。その表情も板に付いている。
「あなたは見習い?…見込みがなさそうだけど」
「言うね」
「私も好きでやってるわけじゃないわ」
「なにか理由があるとか?」
女は首を傾げて眼鏡を直す。その仕草の芝居っけは嫌いではない。
「これしかないからに決まってるでしょ?」
「じゃあオレと、どこか行こうか」
唐突な問いに女が目の前の男を見る。
短い間が流れるが、雨は降り続く。
女は冷淡を絵に描いたような微笑を浮かべる。
「生憎、恋人が待ってるの」
デポールは肩をすくめると笑う。
「フられるのは慣れてる」
女は無表情な瞳でデポールを見つめ返すと、雨の中を帰っていく。
白く光る銃を恋人と呼ぶ女は綺麗だ。
裏通りに貼られたポスターみたいに消費されていくだけの美。
でも、それの何が悪い?
厨房に帰ると思った通りの惨状が広がっていて、デポールは笑いが止まらなかった。
ああだから、この仕事は辞められない。
かろうじて料理長だとわかる化け物がこちらに近づいてくる。
デポールは馴染んだ銃を片手で弄びながら彼の前に立った。
「なぁあんた・・・オレの作るものが形だけの代物だといっただろ?
気持ちがない料理は、見た目が整っていても醜いだけだってさ」
表情のない笑い。変容した体型の中ででっぱった腹だけはそのままだ。
笑わずにいられるか。これが。
「今のあんたは、最高に醜いよ・・・」
銃声と裂くような笑いで満たされる小さな箱。
赤に染まっていくフローリングを眺めながら、デポールは作りかけの料理をつまむと口へ運ぶ。
褐色のソースが付いた指を舐めながら、足下の料理長だったモノを爪先で転がす。
「よく、こんなもん出せるな?」
感情を表すなんて、そのほうがよほどグロテスクだ。
そんな醜いモノになってしまう自分を理解していないのは哀れだ。
何も感じない術を得ている自分が、汚れることなどあるわけがない。
ずっとあの頃のままだ。
きっとあの女も、熔けない氷みたいに、いつまでも冷たくて純粋な形をしている。自分たちは最初から正しい。
そして間違うことなどない。
先刻からうるさい程の雨の音が何故か聞こえない。
妙に静まった空間が寒い。
煙る雨の離れ。遠ざかる無粋な傘をさす女。
調理台に腰をかけると、デポールはひとり笑う。
あれが、きっと、最後のチャンスだった。
靴の先から赤い滴が床に落ちる。
もう、どこにも行けない。
あるいは、どこに行っても一緒だろう。
それとも、この道が間違っていたとでも?
そんなはずがあるか?
だが。もうすぐ。何かが来てしまう。
感じないことと解ってしまうことは別だ。
唐突に、別の世界への扉は開かれる。轟音と共に。
「ここでなにをしている」
デポールは怯えた表情を造りながら、やはり笑いを堪えられない。
神がいるなら、そいつは人の感情を覗くのを娯楽にしているのだろう。
それにしても、ずいぶんと粋な演出をするものだ。
数年ぶりに指が震える。いつか見たテレビの歓声が聞こえる。
そうだ。やはり自分は間違っていなかった。
あの女も言っていたじゃないか。これしかないと。
振り返ることの無かったこの道は、やはり正しかったのだ。
こうして、憧れた存在と、ちゃんと向き合えたじゃないか。
デポールはまるで悪魔の如き正義の味方に向き直ると、銃口を向けた。
「こないでくれ」
いま、子どもの頃の自分に会えるなら言ってやれる。
おまえの憧れは無駄じゃなかった。
おまえの道は間違いじゃなかったと。
扉が閉まる音を聞くのは、もうすぐだ。
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蛇足(反転)
彼らは間違ってたわけじゃない。適当に生きられなかっただけ。いや、頑張って適当というか。
何も感じない、というのはそれだけ繊細だったって事だと勝手に解釈してますが。夢見すぎ?
必死にペラいあんたが好きよデポール。