格調
狭く暗いその空間は、男の砦と言っても過言ではなかった。
寂れた教会。かつて神という名の信仰が盛んだった頃、
純白だった建物はいまや廃れ、風化し、滅びようとしている。
天窓から薄汚れ、埃にまみれた床に光が落ちている。
建物の最奥に位置する、大仰なステンドグラスだけがその輝きを失わない。
年老いた男は番人としてここにいる。何を守るのかは問題ではない。
様式だけが世界を左右する。
かつての懺悔室には時折の訪問者がある。懺悔とは無縁の輩が集う小部屋。
牧師というのはここに住む彼に、誰かが付けたあだ名のようなもので本当は何者でもない。
名を知っている者も既に存在しない。
若い頃の牧師は、生きてきた時間の倍以上、停滞した時の中にいた。
そしてある時、彼の前に「何者か」が現れる。
牧師はそのときから、この古い信仰の場に影のように定着している。
かつて礼拝堂だった部屋の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
天窓からの白い光が訪問者に濃い影を与え、切り絵のように床に映しこむ。
黒を纏った男は乱暴な足取りを正確に運び、牧師の座する小部屋の前で立ち止まった。
彼らのつき合いは長い方だが、互いの姿を光の下で見たことはない。
隔たりは薄い布が一枚。鋼鉄より強固な差だと当人たちだけが知っている。
牧師は力無く垂れ下がった黒い布の隙間から預かっていたものを渡す。
悪意を吐き出して生きている者を骸に変える道具。
牧師はそれを地上の誰より自由に扱えた。
受け取った男が弾を込める微かな音が響くほどに、礼拝堂は静まり続ける。
「いかがですか。ダン」
牧師はわざと名を呼んだ。もう一歩、踏み込む準備の為に。
ダンと呼ばれた男は銃に落としていた視線を一瞬だけ上げたが、それだけだった。
小さく肩を竦めたのも、もちろん牧師には見えていない。自分への仕草。
「問題ない。いつも通りだ」
牧師は椅子に深く掛け直した。暗い部屋は全てを牧師の目から隠している。自分すらも。
「あなたと会うのも、今日が最後でしょう」
「胡散臭い占いでも出来るのか」
「もっと、決定的なところからの通達です。私もあなたも、もうすぐ出番が終わるようだ」
男が椅子に座る音が聞こえた。珍しく長居をする気になったらしい。
「牧師のくせに、気づくのが遅すぎるんじゃねぇのか」
牧師は自らの両手を見る。
闇に隠れて見えないその手には、指が1本もなかった。
初めから、そこに存在しないかのように。
「次の時代には、誰かが我々と同じ役を振られるでしょう。・・・しかし、それが、世界の正しい運動と言えるかもしれませんね。正しいということに意味があるなら、ですが」
「それで?」
興味のなさそうな彼の声音に、牧師はひとり笑う。
「ただの世間話ですよ。少し感傷的になったようだ・・・。年はとりたくないものですね」
「何者か」が彼の前に立った日。
牧師は両の指全てと、この小さな部屋から出ないことを条件に、仕組みに近づくことを許された。
あれが神なら、悪趣味なことこの上ない。だが、自分は若かった。
指の代償は目の前にいる男との関わり。そして殺意を手で触れられる形にする能力。
悪魔の手と呼ばれる、この手によって創られるものたち。
カーテンの向こうに座る男は、牧師の表現した悪意を携え、
この世に存在するはずのない力で屍の山を築く。
まるで神の所行。光り輝くその力は全てを壊し、神々しいとさえ表現されるだろう。
皮肉なものだ。
あれから何年経ったのだろう。
年月が彼らにとって意味をなさないことを知っていてなお牧師は考える。
それは彼の、最後の悪あがきに違いなかった。
男の低い笑いで、牧師は過去から引き戻される。
「最後の通達とやらが来たら、俺を呼んでもいいぜ・・・。こいつの礼だ」
コツ、と銃を壁に当てる音。
最期の血を流す場所を選ばせてやるという、その傲慢な態度は、男の浅はかさで神々しさだ。
牧師は『彼ら』と会えて確かに歓喜したし、同時に嫉妬し憎んでもいた。
いまはどちらでもない。
「無駄でしょうね。我々に選択肢など与えられてはいません。気持ちだけ、受け取っておきます」
「あんたの神様とやらは、諦めのいい人間が好きなのか?」
人間という表現に、牧師は新鮮な響きを感じた。
この男は、その存在を理解しているのだろうか。
「あなたたちは歴史の後見人に選ばれた。意志はどうであれ、ね。所詮、その器ではない私が一翼を担った以上、それ相応のリスクは仕方ないでしょう。あなたには、関係のない話ですが」
くだらねぇ、と吐き捨てると男は立ち上がる。雲が横切り、天窓からの光が傾く。建物の全てが陰る。
ステンドグラスだけが輝きを失わない。
「救いようのない野郎だな。欲しがるなよ」
一呼吸置いて、諭すように言う。慈悲に近い言葉。
「あんたには、わからないだろうな」
永遠という言葉が意味を失う地点。そこはどんな色をしているのか。
男は牧師に背を向ける。もう二度と振り返らない。しかし牧師には、はじめから見えていない。
「お元気で」
「余計な世話だ」
小さな砦から男は出ていく。歪んだ世界をさらに歪めに行くのだろう。
どれだけ時が過ぎたのか。
牧師はやがて、部屋を出た。
礼拝堂の広く白い空間。光の中で自らの影が濃い。
足下に抜け落ちた鳥の羽。埃に足跡。壊れた椅子。精神の残滓。
壁に嵌められたステンドグラスがその姿を誇示している。
まばゆい赤と緑のコントラスト。青と白の繊細さ。
威圧的にそびえる色ガラスには、傷一つ無い。
牧師は両手を胸の前に挙げ、存在しない指を組んで祈る。
憎悪が望む場所へ届くように。
悪意が世界を変えられるように。
後悔が受け継がれるように。
真っ直ぐに降る光の中。
影のように立ち尽くしている彼の頭上がいつか崩れだす。
光は去らない。
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蛇足(反転)
ここまで読まれた方、ホントにお疲れさまでした!
私しか楽しくない話でマジ申し訳ない。
世にも不思議なダンの愛銃について考えていたらこんな話が出来ちゃって(なぜだ)
…廃墟の教会萌えなんです。ベタ。